坂本城

別名-  付近住所 滋賀県大津市下阪本町 現在 坂本公園
2007/6/2 碑・案内板アリ 日本城郭大系


明智光秀  天下統一をめざし、戦国時代を疾風のごとく駆け抜けた織田信長は、元亀2年(1571)比叡山延暦寺を焼き討ちすると、最も信頼する家臣の一人である明智光秀を、京都を扼する西近江の要衝 坂本に封じた。
 築城の名手であった光秀は、翌元亀3年、本公園の北方300mの湖岸に、安土城に次いで日本第二の名城と謳われた坂本城を築城した。坂本城には、姫路城のように大天主と小天主があり、城郭の範囲は、日吉山王祭のよびものの一つ、船渡御の神事が行われるこの七本柳にまで及んでいたとされている。
 なお、今も城、城畔、御馬ヤシキなどの字名が残っている。

 明智光秀
われならで 誰かは植えむ 一つ松 心して吹け 志賀の浦風
明智光秀は、美濃国の名族、土岐氏一族の出身。永禄10年(1567)40歳ごろ織田信長の家臣となる。
 元亀2年(1571)山門焼き討ちのあと光秀は、湖岸に豪壮な坂本城を築城し、その初代城主となった。以後およそ十年間光秀は坂本城を本拠地として活躍した。光秀はすぐれた武将であっただけでなく当代一流の文化人と親交をもち茶の湯、連歌、詩歌などに造詣の深い文化人でもあった。